独り立つ人体の像

私の作品の多くが、独り立つ人体の像です。
そして、その身体はどこかが異形です。
これらの像は、私と私の関わるコミュニティーの想像する自身の身体なのです。
ではなぜ、それらが異形なのか。
それはその自身の身体の置き場である現在の日本の様に理由があります。
その理由を以下「日本の敗戦」「サブカルチャー」をキーワードに語ります。

(一)「日本の敗戦」
日本人は特定の宗教を持つ人が少ないのですが、自然崇拝や、仏教、儒教の影響を受けた思想を持っています。
その思想では、「身体」と「心」とを別けて考え、例えば死後は「心」である霊魂が「身体」と別れると考ます。
また、「心」に「身体」以上の重きを置き、「心」によって「身体」をコントロールすることに宗教的な価値を見いだします。
つまり「身体」を、意識的に制御しようとするのですね。
その表れが「切腹」であり「特攻」です。
第二次世界大戦中の日本は、その思想に強く縛られていたと言えます。
ですが、その思想は敗戦によって虚勢されました。
日本人自身がその身体感覚を批判し、「身体」と「心」を繋げて考える欧米的な身体感覚を取り入れようとしたんですね。
ですが、それがうまくいかず、その結果、歪んだ身体感覚を日本人は身に付けてしまいます。
社会の制度や教育など大きなコミュニティーは欧米的な身体感覚を基本にしているのですが、小さなコミュニティーにおける身体感覚は以前のまま。
そのため、自身の身体感覚をどこを基本にし、どう位置づけるのかに苦しむことになってしまいました。
切腹ができず、その刃の納める先を見失しない、刃を握ったまま戸惑っている様です。
私はその姿を自分の像に込めようと考えています。
かつて欧米における身体像は、神が似せて作った「ヒト」をより神に近付けることを目的に制作されました。
そういったコミュニティーの理想とする身体を描いていました。
それが近代になり作者自身の、つまり「私」の「身体」を描くことを目的となります。 日本人である私は、そのどちらも行うことができません。
できることは「コミュニティー」と「私」共に持つ揺らいだ身体感覚をそのまま描き出すことだけです。

(二)「サブカルチャー」
歪んだ身体感覚を是正しようとする思いが、この日本ではサブカルチャーの中に色濃く出、身体感覚の揺らぎに苦しむ日本人はそれを大きく消費するようになります。
その漫画においての表れが、「身体」と「心」を繋げて考える欧米的な身体感覚だからこそファンタジーでありえるディズニー的なキャラクターに、血を流し、時には死ぬこともあるリアリティーある身体を与えることでした。
手塚治虫によって広く知られるようになったこの表現方法は、ファンタジーの中で、「身体」と「心」とを統一させるもので、そのファンタジーを日本人は必要としたのです。
それは、欧米におけるディズニー的キャラクターの消費の仕方とまったく逆ですね。
しかし、その歪みを完全に是正することはできず、漫画の中でも異形の者として描かれることがあります。
特に漫画の中での性表現では、「性」が実社会においてなにより「身体」を感じさせるものであるから、その歪みが強く表現され、異形な性として描かれます。 その歪みにリアリティーがあるからこそ、広く消費され、その消費に応えるためにさらにリアリティーを掘り下げるという作業が繰り返され、漫画における性表現の多様化がなされました。
例えば「ふたなり」や「ボーイズラブ」等。
私の作品は、そんな歪んだ身体感覚を像として定着させるために漫画の表現方法を用いり、特に漫画における多様で強いリアリティーを持つ「性」の表現を取り入れて制作されています。